娘の不登校と安冨歩さんのこと

娘の不登校が本格化

小学二年生の娘が、7月に入ってから

いよいよ学校に行かなくなった。

 

学校に行かないまま夏休みに突入した。

 

7月の初めに個人面談があり、

おとーちゃんにも来てもらって、

先生と3人で話した。

 

我が家の結論としては、

「娘は学校に行きたくないと言ってるから、しばらく休ませることにした」

というもの。

 

先生は立場があるから、登校して欲しい様子ではあったけど、

高圧的な態度は一切なく

来れるようだったらいつでも来てくださいね〜、

という感じだった。

 

6月にブログで、娘が学校に行きたくないようだ、

と書いた。

 

その時点では、

「行きたくないなら行かないでいいのでは?」と考える反面、

「出来ることなら、登校して欲しい」というふうに考えていた。

 

勉強が遅れるのが心配だったし、

家に居られても困る、という気持ちもあったし、

何か原因があるのかな?とも思っていたから、

それを乗り越えて行かないとダメなんじゃないか?とも

考えていたかもしれない。

 

でも、今は娘が行きたくないなら学校には行かなくていいや、

と心の底から思っている。

 

そう思うようになった経緯を書いてみようかと思う。

下駄箱で見た娘の姿

娘は毎朝、おとーちゃんと一緒に登校していたのだが、

その日はおとーちゃんが不在で、私が学校まで送り届けた。

 

ダラダラ、覇気のない顔で歩く娘にイライラしながら

学校に到着し、それでもまだ足の動かない娘を

下駄箱まで見送った。

 

娘は下駄箱の前で、途方にくれたように数分立ち尽くしていた。

 

それを遠目に眺めていた私は、

 

「こんな思いをさせてまで、学校に連れてくる意味があるのだろうか?」と

帰りの道すがら、ずっと考えてしまった。

 

家に帰ってからも、娘が下駄箱で立ち尽くす光景を何度も思い返した。

 

ツイッターでぼやく

 

それで、誰かに話したくて、

普段はエレカシの事しか呟かないツイッターに

その日の出来事を投稿した。

 

 

エレカシ垢は、同年代で子供のいる女性が多いので、

ありがたいことに、たくさんの人が私の投稿にリプをくれた。

その中の一つに、以下のようなものがあった。

 

 

その人のタイムラインでは、私のツイートの下に

れいわ新選組から参院選に立候補していた

安冨歩さんのツイートが並んでいた。

 

それがあたかも、

安冨さんが私の悩みに返答しているかのようだ、

というのだ。

 

安冨さんのツイートには、

「学校は人間をシステムに適合させる場」とあって

私が漠然と感じていたことはこれだ、と納得。

 

学校に行きはじめて2年足らずで、

娘は、本来の彼女らしさというものを

急速に失って行って、

子供らしい、生き生きとした表情を見せなくなった。

 

私もそれが良いこととは全然思ってないにも関わらず、

でも学校は行かないといけないんだし、

何とか順応して欲しい、と願ってしまっていた。

 

それが、娘にとって、どんなに負担だっただろう。

 

彼女が彼女らしさを失う、そんな代償を支払ってまで

学校に通う意味がどこにあるんだろう?

 

この安冨さんのツイートと、

それを知らせてくれたフォロワーさんとのやり取りで、

私自身が、学校に行かないって選択にビビってることに

気がつき、娘の意思を一番に尊重してあげたい、と思った。

 

選挙街宣というものに初めて行った

このツイートが7月3日のことで、

翌4日に、家の近所の秋葉原で山本太郎さんと

れいわ新選組の候補者全員が街頭演説をするというので、

家族揃って見に行った。

 

私は安冨さんの話を聞きたかったのだ。

 

山本太郎さんは、知名度が高いし、

7月4日の時点でツイッター界隈では、

れいわ新選組は随分話題になっていたので

秋葉原にはたくさんの人が集まるんだろうと予想して

行ったが、それに反して人出は少ないように思った。

 

安冨さんの話はわかりやすく、選挙の演説とは思えないものだった。

 

「子供を守りましょう。」

 

「子供の言うことを聞いて下さい。」

 

「子供を、自分たちのような大人に育ててはいけない。」

 

自分が、学校や社会に対して感じていた

漠然とした違和感の正体がはっきりしたし、

それは個人的な問題ではなくて

政治的な課題であると言ってもらえて

私自身が、救われたような気がした。

7月7日 新宿西口広場

次の日から、各候補者の参院選の選挙街宣が本格的に始まった。

 

安冨さんは、馬を連れて街宣すると公言していたから、

子供たちを「お馬さん見に行こうよ〜」とそそのかして、

雨の中新宿まで出掛けた。

 

安冨さんは、馬選挙について

 

「馬という記号化されていない、大きくて強くて優しい生き物を

都市に持ち込んで、記号化されていない世界をみんなに

思い出して欲しい」

 

というような発言をしている。

馬選挙について詳しくはこちら

 

私が思うに、子供の住む世界は、

馬が普通にいる世界みたいなもので

魑魅魍魎が跋扈する世界を

体全体を使って考え、感じながら生きている。

 

成長して、言語を獲得するに連れて

世界は整理され、記号化されて整然としたものになっていく。

 

それゆえに、記号化できない部分は無かったものにせざるを得ない。

 

娘は今まさに、大人の住む、馬のいない世界に移行する段階にあって、

順応できないから拒絶反応を起こしている(無意識で)のではないか・・・?

 

穿った見方かもしれないけど、

私にはそんな風に見えてしまった。

 

かわいそうな子供、かわいそうな私たち

 

ちなみに、この馬選挙、ツイッターでは

動物愛護界隈の人々に散々批判されていた。

 

これに対して、安冨さんはブログで次のように

書いている。

 

都市を歩く馬を見て、可哀想だと感じることは、

人間がこの環境で暮らすことが

悲惨な現実だと気付くための最初の一歩になるはずである。

そして、馬が本当に可哀想だと感じるなら、

私たち人間も本当に可哀想だし、

即刻この環境を変えるためのアクションを起こすべきである。

 

これは、私が小学校の下駄箱で立ちすくむ娘を見て

感じたことと同じなのではないだろうか?

 

コンクリートの殺伐とした四角い建物、

それに象徴される規則だらけの、息の詰まりそうな、

面白くも何ともない空間。

 

そこの一員にさせるべく連れて行ったものの、

本当は私は、ここで無為な時間を

過ごさなければいけない子供に対して、

「かわいそうだ」と感じている。

 

そして、「子供がかわいそう」って感じるってことは、

我々大人が暮らしているこの世界が

かわいそうなくらい悲惨な場所であることを意味している。

 

それを言っちゃあ、おしまいよ!

 

と思って、今まで口に出来ずにいたけど、違うんだ。

 

言わなければいけないんだ。

容れ物に合わせて、

人間の形を無理矢理変えるような

社会はもう時代遅れである、と。

 

娘は学校を拒否している(多分)。

娘の形を無理矢理変えるべきじゃない。

 

ノーベル平和賞を受賞したマララさんのお父さんは

マララさんをどう育てたのかと聞かれて、答えている。

「私は娘の翼を折らなかった。それだけです。」

 

(引用して思ったのだが、マララさんは女性が教育を受ける権利を

訴えている。対してうちの娘は学校に行きたくない訳で。

日本社会の生きづらさの特性みたいなものが

透けてみえるような気がする。)