『人生を変える断捨離』〜モノとヒトの関係の歴史

やましたひでこさんの新刊、『人生を変える断捨離』を

読みました。それで、絶賛断捨離中です。

でも、断捨離の奥義とは何だろう?

そんなことを考えてたら、

ブログがなかなか書けなくなってしまいました。

二つの思い出

 

今から約25年前、私の祖母が亡くなった。

 

祖母の住んでいた、小さな木造一戸建ての家屋の

遺品整理を親戚一同で行った。

 

当時18歳くらいだった私にとっては、

骨董品屋さんに並んでいるようなモノが

納戸から出てくるから、いちいち面白くて、

なかなかモノが捨てられず、遺品整理は時間がかかった。

 

今思い返して見ると、

祖母の使っていた裁縫箱には、

古くなった衣類からとったボタンや

糸クズが小さなフィルムケースに分類されて

きちんとしまわれていた。

 

戦前、戦中の本当にモノがなくて、

モノが貴重だった時代を生きて

子供を育てた人だから、

戦後の日本がどんなに豊かになったといっても、

おいそれとモノをおろそかには

できなかったのだろうと思う。

 

今から約10年前、

亡くなった祖母の長男で

私の母の長兄の康夫さんが亡くなった。

 

70代の後半だったと思う。

 

康夫さんの亡くなった自宅の片付けもした。

 

祖母の住んでいた家に隣接する土地に

1985年ごろにテナントビルを建てて、

その4階に夫婦二人で住んでいた。

 

その家には、衣類や食器類、大型テレビ、家具など

ありとあらゆるモノが各部屋を占拠していた。

 

特に洋服は夥しい数があって、

値札のついたままのモノも

数多くあった。

 

興味深いものは何一つ出てこなかったけど、

箱に入って、

一度も使われることなく仕舞い込まれた

5客セットのティーカップなどは、

自分が引き取ったとしても

使うことは絶対にない!と断言できるけど、

捨てるのには随分躊躇したものだ。

モノとヒトとの関係

 

『人生を変える断捨離』

(やましたひでこ著、ダイヤモンド社、2018)

という本を読んだ。

 

モノとそれに付随する執着心を捨てて、

生き方を変えよう、というような

提言をしているこの本では、今の時代を、

「かつて想像し得なかったようなモノ溢れの時代に

突入したのです。」(p,28)と規定している。

 

人類は有史以来長らく、モノ不足で、

モノが貴重な時代が続いていた。

 

20世紀に入り、いわゆる消費社会が到来し、

現在に至るまでモノは過剰に生産され、流通している。

 

でもモノが貴重だった時代が長いため、

モノが過剰になってしまった今でも、

「もったいない」

「いつか使うかもしれないからとっておこう」

という思考が抜けなくて、

家の中がモノで溢れかえってしまうのだという。

 

祖母の時代は、本当にモノが貴重だった。

 

康夫さんの生きた時代は、もうモノが溢れていた。

 

でも、モノがなかった時代の考え方は色濃く残っている。

 

康雄さんにとって、モノを捨てることは

なかなか罪悪感を禁じ得ない行為であっただろうと想像する。

 

康雄さんの建てた家は康雄さんの長男のぶくんが相続した。

そして、色々あって、私たちはのぶくんにその家を

借りて住んでいる。

 

まだまだ康雄さんの遺品があちらの棚、こちらの押入れに

入ったままなのである。

 

のぶくんは、断捨離の著者やましたひでこさんと

ギリギリ同世代と言ってもいいくらいの年。

現在、58歳である。

まだまだ、捨てられない世代である。

 

でも、康雄さんにとっては、

モノは「豊かさ」の象徴であっただろうけど、

のぶくんにおいてはもうその限りではない。

 

のぶくんの世代は、すでにモノにうんざりしている。

 

のぶくんの若い頃はブランド品が持て囃されていた時代だと

思うけど、モノに対する付加価値が極限まで達したのを

リアルに体験しているからこそ、

うんざりの度合いも深いのかもしれない。

 

そして、親父の後始末もしなければならない。

 

まだまだ捨てられないメンタルを継承しつつ、

なんとか片付けなければならないとも思っている。

 

モノと人との関係において、

幸せな愛の日々、蜜月を過ごしたのは

間違いなく康雄さんの世代。

 

そこから、愛は徐々に憎しみに変わっていき、

しかし離れることなどできるわけなく、

やり場のない閉塞感で身動きが取れなくなったのは、

のぶくんの世代なんじゃないだろうか。

 

 

その下の世代である私などになると、

モノに対する執着心ももっと薄くなって、

「しょせんはモノ」「とっといても使わないし」

と、捨てることに抵抗感が薄くなってきている気がする。

疾風怒濤の時代

 

 

人々は、そんな「モノ軸」思考を引きずったまま、

かつて想定し得なかったようなモノ溢れの時代に

突入したのです。約500万年の歴史がある人類は、

今や未曾有の大変化の波に飲み込まれていると

言っても過言ではありません。

(『人生を変える断捨離』やましたひでこ著 p,28)

 

この先ずっと、モノ余りの時代が続くとは

私には思えないのだけど、

確かに現代はモノに対する思考と現実が

乖離しているように思える。

 

でもほんのおばあちゃんの世代には

まだモノが不足していて、

モノを渇望していた時代があって、

急激に豊かになって欲望が満たされて、

今度はモノが溢れかえってしまって・・・

 

「青年期は疾風怒濤の時代」と

高校の倫理の時間に習ったけれど、

まさにモノとヒトは疾風怒濤の時代を経て、

今、もう一度、その距離感を見つめ直して、

新しい関係性を結び直さなければならない時代に

突入しているのかもしれないな、と感じた。

 

モノによって純粋に心が満たされて、

豊かさが実感できた時代があって、

それは本当に幸せな時間だったと思う。

 

でも、奇跡のような時間でもあったのだろう。

 

あの素晴らしい愛をもう一度!と願うのは、

人間の悲しき性だ。

 

前提条件が違うから、以前のように仲睦まじく

手を握り合ってというわけには行かない。

 

しかし、モノにはすごい吸引力があって、

人間はモノなしには生きていけないし、

どうしても吸い寄せられてしまう。

 

モノの強い力に振り回されてコントロールを失えば、

部屋はモノで溢れかえってしまう。

 

自分が自立して、主体的にモノと渡り合えないと

良い関係は築けないのだ。

 

モノと私が、手を取り合って力強く、

良い人生を掴み取っていく。

 

『人生を変える断捨離』の世界観はそんなイメージ。

本当の自由、取り戻すのさ!

 

本来、私たちには、次の3つの自由が与えられているはずです。

・捨てる自由

・捨てない自由

・取捨選択の自由

(『人生を変える断捨離』やましたひでこ著 p,28)

 

 

「モノを全部手放して、執着から解放されましょう!」

 

「大事なのは〝今〟そして〝自分〟です。

自分の気持ちに正直に生きましょう!」

 

『断捨離』はそんなことを主張して、

捨てられない人々に免罪符を与え、

さらなる大量消費を促すシステムを構築しようと

しているのではないか?と訝しんでおりました。

 

素晴らしいことが書いてあるのに、

なぜか素直に賛成できない自分がいる・・・

 

なんでなんだろう?と自己を見つめ、問いかけ、

何度も本を読み直して考えました。

 

「モノを粗末にしてはいけない」という呪縛から

人々を解き放つ、

「私たちには捨てる自由がある!」という主張は、

世の人々に待望されていたのだろう。

そこばかりがクローズアップされてるような印象を受ける。

 

しかし、「捨てない自由」「取捨選択の自由」がある、

とも書いてあるのだ。

 

これはどういうことか?

 

捨てるも、捨てないも、それを決めるのは

全部私に委ねらている、ということだ。

 

誰かのせいにも出来ないし、

モノのせいにも出来ない。

 

私が決めて、責任を持って管理し、使用する。

 

捨てることへの葛藤も、

手放せないモノへの執着心も、

一切を自分が引き受けると自分に宣言することを

意味しているように思えてならない。

 

 

大げさでしょうか?

 

大げさですね。

 

でもね。

 

私は全部捨てるのはやめて、

使えるものはなるべく使ってから

捨てることに決めました。

 

時間はその分かかるかもしれないけど、

断捨離とは「生命の新陳代謝」である、と書いてあります。

 

何でもかんでも捨ててスッキリするのは、

下剤を飲んで便秘が解消する、

というのと似てると思う。

 

モノは使われてこそ生きる。

モノを使うことは、供養でもあると思う。

 

使わないものは買わないにこしたことはないけど、

ポイポイ捨てればいいやと思ってしまえば、

きっとポイポイ買ってしまうのではないだろうか。

 

現時点ではまだその疑いが払拭出来ない。

 

現時点では。

 

考えはそのうちに変わって行くに違いない。

 

人間は新陳代謝を繰り返しているのだから。